投稿者: Shigeo Kawazu

  • 森有正『バビロンの流れのほとりにて』を読むー(1)

    「パリにて 一九五三年十月八日」

    わたしは森有正をとくに専門的に研究してはいませんし、また、また彼について詳しい知識をもっているわけでもありません。彼の著作を全部読んだとか、ほとんど読んだというのでもありません。

    しかし、わたしは森有正の著作のいくつかはある程度真面目に、真剣に読んだことがあります。そして、彼の言葉には、忘れ難いものが本当に多いのです。今、森有正全集第1巻所収の最初のエッセイ集「バビロンの流れのほとりにて」の1ページ目をめくってみると、そこにはまず日付があります。そして、一度読んだら忘れられないような真実な響きを持った文章が始まっていきます。

    「一つの生涯というものは、その過程を営む稚い日に、すでに、その本質において、残ることなく、露われているのではないたろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるを得ない。」

    「社会における地位やそれを支配する掟、それらへの不可避な配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。」

    「暗黒のクリークに降り注ぐ豪雨、冴え渡る月夜に、遥か空高く、鳴きながら渡ってゆく一群の鳥、焼きつくような太陽の光の下に、たった一羽、濁った大河の洲にたっている鷺、嵐を孕む大空の下に、暗く、荒々しく見渡すかぎり拡がっている曠野、そういうものだけが印象に今も鮮やかにのこっている。そこには若い魂たちの辿ったあとが全部露われている。しかもかれらの姿はそこには見えないのだ。」

    「ただたくさんのものが、静かに漲り流れる光の波を乱して、人生の軽薄さを作っているのだ。人間というものが軽薄でさえなかったら……….。」

    「紗のテュールを嵌めた部屋の窓からは、昨日までの青空にひきかえて、灰色がかった雲が低く垂れ込める夕暮の暗い空が、その空の一隅かが、石畳の道の向う側にある黒ずんだ石造のアパートの屋根の上に、見える。パリの秋はもう冬のはじまりだ。」

    「人間が軽薄である限り、何をしても、何を書いても、どんなに立派に見える仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽にすぎないのだ。その人は水の枯れた泉のようなもので、そこからは光の波も射し出さず、他の光の波と交錯して、美しい輝きを発することもないのだ。自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか知らない。その反証ばかりを僕は毎日見ているのだから。それでも進んでゆかなければならない。」

    「僕が十三歳の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。」

    「僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。」

    「僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。」

    「たくさんの問題を背負って僕は旅に立つ。この旅は、本当に、いつ果てるともしれない。ただ僕は、稚い日から、僕の中に露われていたであろう僕自身の運命に、自分自ら撞着し、そこに立つ日まで、止まらないだろう。」

    (森有正(1978)森有正全集 第1巻. 筑摩書房 より抜粋)

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    この森有正「バビロンの流れのほとりにて」の最初の記事の日付ですが、一九五三年というのは、わたしが生まれた年です。わたしは森有正がこの記事を書いたとき、生後約半年でした。そして千葉県の田舎で両親と暮らしていました。今は、二千二十五年です。

    この記事は執筆途中です。

  • ニルスのふしぎな旅

    ニルスのふしぎな旅

    わたしは読書は好きだが、ひたすら毎日本を読んでいるといったタイプではない。多くの時間は、読書よりもたんに脳髄の中心部で思考することに費やしている。わたしの思考は途切れ途切れだが、それでもずっと継続して連なっている。そんなわたしの思考の中に、大きく分けて2つの読書体験のジャンルがある。一つは、普通の書物全般であるから、とくにジャンルというのも変なのだが、もう一つが、じつは、児童文学なのである。だから、児童文学とそれ以外という分類になる。

    児童文学が、わたしにとって、一つのジャンルになるのは、それがかけがえのないわたし自身の経験の一部を形作っているからである。児童文学についても、わたしは多読ではなかった。それでも、わたしの子供のころの成長の一コマを刻み、深く心に残ったものが、いくつかある。

    その一つが、最初のブログで取り上げた、『安寿と厨子王』だった。その前後の時期で、やはり母に読んでもらった絵本だったが、大変印象深かったものが他にもあった。それは当時の普通の家族を描いたものであった。ある小学生の家族だったが、父親が毎朝自転車で仕事に行く。ところが、ある日父親が仕事に行こうとすると、自転車が盗まれていた。家族は、みなとても驚きまたがっかりしてしまった。ところが、父親が新聞に「自転車がなくなって困っています。返してください」という連絡文を掲載してみたのである。すると、その翌日、自転車が家の前に返してあった。そして、家族がみんなとても喜んだ、というストーリーである。わたしは、この絵本が大好きだった。それでよく記憶しているし、その絵本の挿絵まで、今でも、ほんのりと記憶しているほどである。また、背景として、小学生の家は丘の麓にあったが、友達の家は丘の上にあるという設定だった。わたしは、絵本の中に入り込み、主人公の少年と一体になっていたので、丘の上の友達の立派な家を見上げて、自分とは少し違う世界のような感じがしたりしていた。

    どうも、わたしは、倫理的な教訓というか教えというか、そういったものが表現されている本に感動したようである。幼いうちから、なぜか、人間として成長していくということに、憧れとったらよいのか、願いといったらよいのか、そういった気持ちがあった。自分で言うのもなんだが、気持ちの優しい子供だったと言うか、あるいは逆に言えば、優しさを強く求める子供だった。それで、子供の成長を見つめてくれている大きく包み込む優しさに溢れた作者の眼差しを、無意識に感じ取り、その眼差しを子供として感受しつつ、また同時に作者の眼と一体にもなって、自分自身を見つめ返していた。

    その後、しばらくそれほど強く印象に残ったものはなかった。だが、もう10代の半ばごろであろうか、児童書を読むには、少し高い年齢になっていた時期だったかもしれない。わたしは、『ニルスのふしぎな旅』を読んだ。それを読み出して、一気にだったかあるいはもう少し時間をかけたか定かではないが、夢中になって読み切ってしまった。少年が、自宅でいたずらをしているうちに小人になってしまい、ガチョウの背中にのって、ガンの群れと一緒に、大冒険をする。そして、長い旅ののち、家に戻る話である。懐かしくなったので、最近久しぶりに読み直し始めている。

    子供が、たった一人で、大人には想像もつかないような大冒険をする。そして、その経験を通して、大きく成長していく。それは、人生というものが、どんなふうにさまざまな冒険を経て、学び成長していく旅路なのかということを、説明ではなく物語として語っている。この物語は、人生というものがどういったふうに展開するものなのかを、ファンタジーの形で、子供にとっても、深く理解できるように提示してくれているのである。それにのめり込むようにして読むことによって、主人公の体験を追体験することができる。そこに深い了解が生まれるとき、それはいつまでも消えることのない深い印象として、心の中に植え付けられる。

    わたしは、人生行路というもののダイナミックな様相を、具体的に教えてくれる物語が好きなのだろう。児童文学によって、そのような人生行路を追体験することができる。心に残った児童文学は他にもあって、それらはわたしの読書体験の一つのジャンルを作った。はじめにも述べたが、児童文学とそれ以外書物の二つのジャンルに分けてもよいくらいに、児童文学は私の中で重要な位置を占めている。

    人生を振り返るとき、心に残った児童文学は、不思議とひとつのまとまりとなって思い出される。その一つ一つの思い出は、それを読んだときの、子供だったわたしのさまざまな悩みや苦しみや喜びの入り混じった記憶と一体となり、子供なりのビタースイートとでも呼べるような、複雑な懐かしさを呼び起こす。天真爛漫に夢中になって転げ回ることの少なかったわたしにとって、それは書物によって喚起されたイマジネーションによる、子供らしい喜びの追体験だったのかもしれない。それは悲しみのトーンをも多少含んだ、子供なりのビタースイートな経験だった。

    それが懐かしくてたまらないのは、あたかも映画ニュー・シネマ・パラダイスで、子供が映画を通して人生を追体験していたように、わたしは映画でなく児童文学を通して人生の追体験をしていたからなのだろう。森有正が『バビロンの流れのほとりにて』で描写していた慰めと悲しみの一つになった経験の萌芽のようなものが、すでにそこにあったのだろうか。

    今ふと思い出した。ニルスがガチョウの背中に乗って、空高く飛翔し、眼下に広がるスウェーデンの街や山や丘を眺めている描写を読んでいたとき、わたしも一緒になって高い空から広々とした世界を眺めつつ飛翔していた。その時の開放感が与えてくれた喜びを、いまだに心の中に深く記憶している。余談だが、ちょっと前に、渡り鳥と一緒に超軽量のライダーで空を飛んでいるフランス人の方の映像を見たとき、その景色が、わたしが子供時に想像していたニルスの大空の旅のイメージとそっくりだったので、たいへん驚いた。空のイメージは冒険を想起させ、子供にとっては、大きく羽ばたいてく未来への憧れの象徴にもなる。書物の中で、大空を自由に飛翔する。ただそれだけで、子供たちは、閉塞感を超えて行く。その日、彼らは合唱曲「旅立ちの日に」を共に歌っているかもしれない。

  • 書店と読書

    書店と読書

    若い頃から、わたしは読書が好きだった。しかし多読ではなかった。むしろ、たまに読んだ本に、深くのめり込んでいくタイプだった。多読をしないので、本は選らぶ必要があった。しかし、本を読む前に本を選ぶのは簡単ではない。両親が読者家というのでもなく、友人に読書好きがいたということでもなかったので、わたしは自分で選ぶことが多かった。それで、よく書店に行った。

    ひとりで書店にいくようになったのは、中学生になってからである。その頃わたしは居住していた船橋市から、千葉市に住む叔父の家に住民票を移し、千葉市の中学校まで電車通学するようになっていた。通学のために毎日自宅から津田沼駅まで10分ほど歩いた。そこから総武線で西千葉まで行き、西千葉駅の海側の方角にある緑町中学校までまた歩いて通った。通学の途中で、当時はまだとてもローカルな駅だった津田沼駅近くにあった小さな書店に、時折立ち寄った。

    わたしが最初に読んだ長編小説はパール・バックの『大地』だったが、それははその津田沼駅前の小さな書店で購入したものだ。それは河出書房の世界文学全集別巻5と6で2巻本であった。上下とも昭和35年初版で、上巻が昭和41年27刷、下巻が昭和41年29刷だった。今でもその2巻は、私の書棚に並んでいる。

    パール・バックの『大地』を読んだことは、わたしの人生にとって大きな意味をもった。わたしは大変内向的な性格だった。あまり積極的に友人たちとわいわい騒いだり、また自分で活発に活動したりするタイプでもなかった。家で両親や家族と毎日とても楽しくやっているということでもなかった。むしろ、ひとりで静かにもの思いに耽り、テレビやラジオから音楽が流れてくると、それに耳を傾けて感じ入ったりしていた。そのような性格であったから、自分自身の生活世界が限定されおり、一種の閉塞感のようなものがあった。そういった中で、ふと選んだ長編小説『大地』を夢中になって読んだことで、身近な世界を越えた場所で、想像を越える長い年月にわたって繰り広げられる中国人の家族の歴史があることを、初めて知ったのである。それは自己が広大な時空へと出ていったような感覚を与えてくれた。思春期になったばかりで閉塞感も強かったわたしの精神世界は、少しく開放された。そして、それによって精神的な深呼吸ができたように感じた。

    その同じ書店で、わたしはドストエフスキーの『罪と罰』も購入した。同じ河出書房の世界文学全集の中の一巻だった。その後、ドストエフスキーの『白痴』も読んだ。この『白痴』から受けたインパクトは非常に大きかった。それはわたしの魂というか存在というか、わたし自身が根底から大きく揺さぶられるような激しい経験だった。小説を読んであまり強すぎる感動を持つことは、不健康な面もあるという話を後で聞いたことがあるが、ともかく激しい経験だった。それで『白痴』を再読することは、自分にとってはよくないと直観的にわかった。おそらく読み返すことができるのは、かなり年齢を重ねてからだろうと思った。じっさいわたしはそれ以来、まだ『白痴』を再読していない。ただこの2、3年は、そろそろ再読しても大丈夫だろう、という感じがしてきている。

    ところで書店の話に戻ると、その小さな津田沼駅前の書店がなければ、わたしはどこか他の書店を探してまでして書籍を買いに行ったりはしなかったであろう。通学する途中に、文学全集だろうが世界の思想だろうが、ともかく世界の知性の最高峰の書籍が並んでいる書店があり、それをひとりの中学生が手に取って、これがいいなと自分で思った本を購入し、それを読んで人生が変わるほどの経験ができたということは、驚くべきことではないだろうか。しかもそこは街の本当に小さな書店だった。

    わたしは高校は千葉高等学校まで電車通学をしたので、高校に入ってからもその同じ書店にときどき行った。津田沼駅前が大きく開発されるようになったのは、だいぶ後からだ。だから、しばらくはその書店はそこにあったはずである。開発が進み駅前は大きく様変わりした。そして書店の規模も大きくなり数も増えていった。しかし、三鷹の大学に入ったころからよく通ったのは、むしろ新宿の紀伊國屋書店本店や神田の古書店街だった。

    わたしはどちらかというと、かなり融通の効かないたいへん真面目な学生だった。それで新宿に行って遊んだりすることはなかった。経済的にも、そこまでの余裕はなかった。新宿に行ったときは、紀伊國屋書店に直行した。天気がよければ地上に出て外を歩き、雨の日は地下道を使った。地上を歩いたときは、歩道から直接上っていくエスカレーターに乗って店内に入った。そして、いつも文学や哲学など人文系の棚を熱心に見ていた。真新しい新刊書が所狭しと並んでいる書棚を見るのは、胸が躍った。理数系の棚をみることもときどきあった。わたしは国際基督教大学の教養学部でHumanitiesの専攻だったが、高等学校では理系のクラスだった。それでできないながらも数学の本などにも関心が多少あった。人文科学でも自然科学でも、一般書から専門書までぎっしり並んでいるのをただ見るだけでわくわくした。時々は、じっさいに購入もしたが、わたしには難ししぎる書物を買ってしまうこともあったりした。購入した多くは、今でも持っていて、家の書棚のどこかにあるはずである。

    本を見終わると、地下街でカレーを食べるのがいつもの習慣だった。同じ大学で知り合った妻とは、結婚前も後もよく紀伊國屋書店本店前で待ち合わせた。携帯電話などない時代である。約束通りにその場所に行かなければ、相手は困ってしまう。そんな時代に待ち合わせるのには、それはぴったりの場所だった。待ち合わせると、妻も書店が好きだったので、二人でしばらく本を見た。そして、地下街のカレーかあるいは地上に出て中村屋のカレーを食べた。

    神田古書店街はよくひとりで行った。人文系の古書店をよく見て歩いた。わたしは西洋古典学を中心に学んでいたので、オックスフォードのクラシカルテキストが置いてある北沢書店などをよく覗いた。しかし出来の悪い学生だったので、まだ読みこなすこともできない原典のテキストの棚を長時間見ているのは恥ずかしかった。だから長くは滞在しなかった。神田で購入したオックスフォードのクラシカルテキストは、今でもおそらく全部持っている。それらは今も書棚の手の届くところにに並んでいる。北米に留学して実験心理学を学んでからも、わたしの哲学への関心は強く残った。だから、それらの人文系の書物を処分することは一度も考えなかった。ソフォクレスのアンティゴネーのJebbの註解書の古書を購入したのは、田村書店の2階だったと記憶する。アドバイザーの川島重成教授が同じJebbのオイディプス王の註解書を使っておられるのを知っていたので、アンティゴネーの註解書を見たとき、どうしても欲しくなってしまったのだ。それで衝動買いをしてしまった。その註解書も書棚のどこかに隠れているはずだ。わたしの卒業論文は、ソフォクレスの『コロヌスのオイディプス』についてだったので、それくらいの衝動買いは已むをえなかったと今でも思っている。

    北米留学中に街の書店に行った記憶は多くはないが、コーネル大学のあったイサカの街の小さな書店に行った記憶は残っている。そこで書店の棚を見ながら、何か良い本はないかと見回し、ペーパーバックの小説などを買ったりした。大学のキャンパスブックストアにもよく行った。わたしは科学的な心理学を専攻していながら、ハイデガーの『存在と時間』の英訳を購入したのも、キャンパスブックストアだった。

    日本で働くようになってからは、紀伊國屋書店本店だけでなく、自宅から行きやすい丸善本店や、その後発展して数件の書店が競合するようにまでなった津田沼駅前の書店にもよく通った。他にあまり趣味がなかったので、書店に行くのが一番の楽しみだった。年齢を重ねてからは、若い時ほどは書店に行くことはなくなった。十和田市に移ってからは、東京の書店まではなかなか行けない。そんな中、つい先日用事で八戸に行ったとき入った、八戸ブックセンターは驚きだった。児童書から地域に関連したさまざまな書籍そして人文系や理系の専門書まで、背の高い書棚にとても魅力的に並べられている。だいぶ前に東京の丸善本店で似た感じで展示されたコーナーを見たことがあったが、八戸でこのような知的好奇心を呼び覚ます書店があるとは想像しなかった。

    読書の喜びを引き出してくれる最初の一歩は、じっさいに本を自分の手に取ってみて、「よく分からないけれど、もしかしたら面白そうだな」と直観的に感じることなのではないだろうか。わたしの実体験からは、どうもそんな気がする。

  • 『安寿と厨子王』覚書

    『安寿と厨子王』覚書

    前回の「初めて読んだ本」の続編として、『安寿と厨子王』に関する覚書を書いておくことにしました。

    『安寿と厨子王』を母に読んでもらった記憶は、わたしにとって特別なものでした。その物語の世界は、幼いわたしの日々の生活に、生活することと言いますか、生きることと言いますか、それがどういうことなのかを、深い彩りと静かに染み通っていく哀愁を帯びた旋律を添えて、教えてくれました。まるで濃厚なストーリーの映画を見た後で少し世界が違って見える時ように、その物語を読み聞かせてもらうたびに、わたしの生活世界はその奥行きを少しづつ増していきました。

    その記憶はわたしの中でずっと持続していましたが、どういうわけか、その後の人生で、『安寿と厨子王』についてのわたし自身の経験を、誰かに話したりすることは、ほとんどありませんでした。ですからずっとわたしは、わたしと似たような経験、あるいはまた別の形の経験であったとしても、『安寿と厨子王』の物語に感動したり感銘を受けたりした経験のある、友人や学校の先生たちはいなかったのだろうと、思っていました。つまり、誰かとたまたま『安寿と厨子王』の話になって、その話題を共有したり、感動を共有したりということが、なかったのです。

    ところで、わたしは妻と結婚して48年になります。その妻に、最近読書のブログを始めたので、その第一回の題材として『安寿と厨子王』について書いたと語りました。すると、妻が自身の中学校時代の学芸会でクラスの出し物として演じた『安寿と厨子王』が、じつに素晴らしかったと、詳しくその思い出を語り始めたのです。それは妻が、名川中学校の2年生か3年生の時でした。安寿の役をしたのはNさんで今も存命中、厨子王をしたのはUさんでやはり存命中、妻自身は放送係だったので裏方でした。(妻はこの夏開催される同窓会でNさんとUさんに会うそうです。)

    妻はその時の『安寿と厨子王』はたいへん感動的だと言いました。それで、わたしは子供のころからずっと大人になるまで、ほとんどだれとも共有できなかった『安寿と厨子王』の感動を、今頃になって妻と共有することになったのです。人生はわからないものです。わたし自身、おとなになったころには、もう誰とも同じ感動を分かち合うこともないだろうと半分諦めていたので、幼い日に母から『安寿と厨子王』を読んでもらった思い出を、誰に対しても話さなくなっていたのだと思います。それで、結婚してからも妻に対しても、それについてあまり話さなかったのでしょう。

    ところが、今度ブログを執筆しようと、改めてわたし自身の記憶を辿り直したことで、『安寿と厨子王』の記憶を妻に語ることになりました。それを聞いた妻が、改めて自分の中学校時代の『安寿と厨子王』の演劇の記憶を詳しく語ってくれたのです。

    人生はふとしたことで、思わぬ展開をすることがあります。しかもそういったことは結構よくあることです。ただ、しかし、それはいつも予期せぬ形で起こります。そういう事態を意図的に演出することはできません。それは偶然性の領域に属しています。それにもかかわらず、それが人生あるいは人の視野を広げたり変えたりすることがあります。

    この他にも少し調べただけでも、『安寿と厨子王』また『山椒大夫』に関する情報には、じつに興味深いものがいくつもありました。森鴎外が『山椒大夫』を執筆した背景、それが映画化されてかなりヒットしたこと、津軽の岩木山の山岳信仰と安寿伝説の繋がり、それに触れた太宰治の小説『津軽』などなど。それらについては、また別の機会にこのブログに書くことができればと思っています。

    ただ映画『山椒大夫』について、それがリリースされたのが1954年3月31日であったということについてだけは、一言触れておきます。それはちょうどわたしが満一歳になったばかりの時期です。母がそれを観たかどうか確かなことは知らないのですが、少なくとも自分の長男がちょうど満一歳のころセンセーショナルにリリースされたその映画について、間違いなく知っていたことでしょう。またその時代には、『山椒大夫』はたいへんな話題だったはずです。今なら、検索のトップに躍り出ていたのではないでしょうか。

    つまり、母は結構普通の人だったのではないかと思うのです。当時の流行や話題に対して、周囲のみんなと同じように反応し影響されていたのではないでしょうか。母が、どこにでもいるようなそんな普通の母親であり主婦であったとのだとすると、わたしが『安寿と厨子王』の読み聞かせの記憶を美化することで、母に対して少しセンチメンタルな共感を持とうとしたのは、むしろわたし自身の幼い日への懐かしさのゆえに、フィクショナルに構成された思い出だったかもしれません。

    思い出と懐かしさとすでに亡き母への想いが、自分でも気づかないほど深いところで交錯し、現実と記憶と願望がいつしか映画の中のように手に手を取り合って踊っていたのかもしれないのです。もちろん、わたしが母の思いを読み当てていたのか、それともわたしの単なる感傷的な想像だったのかについては、もし母自身に尋ねることができたとしても、本当のところは答えられないかもしれません。もうそれは過ぎ去った昔のことですから。

     

     

     

     

     

     

  • 初めて読んだ本

    初めて読んだ本

    幼い時に、母に読んでもらった本を何冊か覚えている。どれも絵本だった。その中で、もっとも強く記憶に残っていた本があった。それが一番最初に読んでもらった本なのかはわからない。だが、記憶に残っているとても幼いころの思い出の中に、その本を読んでもらったときの情景が残っている。

    情景というのは、私のすぐ傍に母がいて、母にその本を読んでもらっている情景である。それが、まるで映画の一コマのように、長く私の記憶に残っていた。それは、もう私自身高齢になった今でも、ほんのりと脳裏に残っている。

    それは『安寿と厨子王』というタイトルの絵本だった。母は、わたしにその本を何度も読んでくれた。母親と安寿と厨子王という二人の兄弟が、騙されて離ればなれになる。母親は佐渡に売られ、二人の子供は山椒大夫に捉えられ過酷な仕事を強いられる。弟の厨子王だけがかろうじて逃れ、その後紆余曲折を経て成長して大人になり、佐渡にわたって母の面影を探す。そこで、ふと立ち止まった農家の庭先で、雀を長竿で追い払っている老女が、つぶやくよう歌っているのが聞こえてくる。なんと老女は

     安寿恋しや、ほうやれほ

     厨子王恋しや、ほうやれほ

    と、歌っていた。

    この絵本が手元にないので、物語のあらすじは、森鴎外の『山椒大夫』を参考にしながら、わたしの幼い日の遠い記憶をたぐりながら書いた。

    私の母は、この再会の場面の母親の歌を、なんどもなんど気持ちを込めて読んでくれた。それでわたしも読んでもらうたびに、幼いながらにその運命の過酷さと再会の喜びの場面で、悲しみを乗り越えてついに再会を果たした喜びがどれほど大きなものだったか、深く感じ入ったのを覚えている。

    実は、わたしの母は幼いときに、子供のいなかった実母の姉妹の家の養子になっていた。養子に出たことは、母にとっては辛かったことと思う。もちろん、安寿と厨子王とその母親の苦しみとは比べ物にならないが、それでも母にはやはり、それなりに実母を離れて暮らすことの寂しさがあったことだろう。

    その自分自身の経験から、母はもしかしたら、母なりに『安寿と厨子王』の物語に深く共鳴していたのではないだろうか。それは、とくに再会の場面で、母親が歌っていた言葉を、母がわたしに読んで聞かせるとき、思わずその声の深さとなって、現れ出ていたのではないだろうか。

    そんなふうに母が読んでくれた時の声の記憶について回想できるようになったのは、私自身、もう40代後半かあるいは50代に入っていた頃だったような気がする。自分自身が歳をとるまで、母の若き日々の内心の想いがどんなだったかに思いを馳せ、母の心の襞あるいはその繊細なつらさや喜びについて、深く理解する力も、また理解しようとする想いすらも持てなかったのではないだろうか。

    書物は、一冊の絵本であっても、それを読んだ人がどのような想いをもって、それを読んでいたのかすら、簡単にはわからない。ある感動をもって何度も読んでいたとしても、ひとりひとりがそれなりに持つ感動や感想を、お互いに理解し合うまでには、かなりの人生経験が必要なのではないだろうか。