投稿者: Shigeo Kawazu

  • 「山上の説教」についての覚書

    先日、マタイ福音書勉強会(於ペディラヴィウム会¹)で、マタイ福音書5章1〜16節についての発題を担当しました。わたしの発題では、主にウルリヒ・ルツ著(小河陽訳)の『マタイによる福音書 1-7章(EKK新約聖書註解)』(教文館)の関連箇所を概略的に紹介し、それについてコメントしました。また、それに触発されて、私自身が考えたことを覚書として提示しました。

    「山上の説教」に記された厳しい教えは、何を語りかけているのでしょうか。キリスト教神学がしばしば陥ってきた「不可能な倫理」という枠組みを離れ、シモーヌ・ヴェイユの思想、とりわけ attention(配慮と注意の眼差し)を通じた再解釈を試みました。律法や教えの真意は、クリアすべき大変厳しい基準を設定することではなく、むしろ傷つきやすい存在に対して静かに心を傾ける「眼差しのあり方」にあるのではないか——。

    『眼差しへの招き:「山上の説教」についての覚書』と題して執筆した日本語の原稿の英訳を以下に掲載します。元の日本語での表現や言葉遣いを適宜修正しつつ、英語に翻訳してみました。

    An Invitation to the Gaze: Notes on the Sermon on the Mount
    By Shigeo Kawazu

    The “Sermon on the Mount” in the Gospel of Matthew is often perceived as a set of rigid rules that human beings are incapable of fully keeping. This tendency can be seen in different forms throughout the history of religious thought. The commandments could come to be understood primarily as rules to be strictly observed, while the radical demands of Christian ethics could, in turn, lead to an emphasis on human inability and on salvation through faith.

    Here, however, it seems crucial to re-examine the very framework of evaluating “how well one has followed the rules.” To do so, I would like to draw upon the thought of Simone Weil and her notion of attention—a way of directing a gaze of care toward others.

    When God gave the Law to Israel, the weakest of peoples, it was an expression of deep compassion and care for those who were suffering. God wished human beings to turn this “gaze of compassion” toward one another. Yet, since it was difficult to communicate this purely through abstract concepts, it was expressed through concrete “commandments and precepts.”

    Later generations attempted to prove their righteousness by strictly obeying these commandments, or, conversely, turned toward inner salvation in response to the sheer impossibility of fulfilling them. However, the radical words Jesus spoke in the Sermon on the Mount were not meant to establish a new and harsher law. Rather, were they not an expression of what lies behind the rules: “how to direct our gaze toward others” and “how to live in a genuine relationship”?

    To free ourselves from the precondition of “righteousness through rule-following,” we need the attitude of attention advocated by Simone Weil. This means quieting the noise within ourselves and directing our attention to the suffering and vulnerable beings before us, sustaining that attentive gaze.

    Neither the Law of Moses nor the teaching of Jesus was intended as a competition to see how many items one could check off, nor were they merely meant to remind us of our helplessness.

    Instead, they seek to remind us of the origin of relationality—of how quietly and earnestly we can direct a gaze of care toward those who stand before us, moving beyond the framework of evaluating whether we are “right or wrong.” When we learn how to direct and sustain this gaze, action arises naturally from it.

    Grace means existing as one who is seen by God’s gaze of loving-kindness. Learning to share this mutual gaze is not something to be discussed in terms of whether or not a rule is kept. Yet, from the perspective of what kind of action naturally unfolds where such a gaze exists, we can indeed speak of human action.

    If descriptions of such actions appear radical, it is simply to express how profound the gaze behind them truly is.


    ¹ ペディラヴィウム会とは、神田盾夫ご夫妻の精神を継承・展開することを使命として、催事、教育催事、研究会・学術会議の運営、図書・雑誌の出版などを行なっている一般社団法人です。

  • カーペンターズ 『I Need to Be in Love (青春の輝き) 』の歌詞解釈:不完全な世界に完全を求める心のドラマ

    ※本記事は、筆者が先日Facebookに投稿したカーペンターズの歌詞解釈に関する考察を、ブログ用に再構成・加筆したものです。このブログは読書のブログですが、歌詞を一つの文学として取り上げました。

    はじめに

    カーペンターズの『I Need to Be in Love(青春の輝き)』は大変魅力的な歌である。しかし、最近偶然見た、2、3の日本語訳がどうもしっくりとこなかった。

    この歌は、基本的に一度愛や恋に絶望して、希望を持たなくなっていた自分を反省し、もう一度、いわば愛や恋をそのまま肯定し求める自分に変わったという、人生のドラマを率直に歌った歌である。以下に、私の意訳を提示したい。

    『I Need to Be in Love』のわたしの意訳

    これまでは、このクレージーな世界のただなかで、本当の出会いなどないと諦めていた。

    だから、もう意味のない約束など止めて、シンプルに生きて行こうと思っていた。

    でも、そんな自由な生き方は、結局、誰かにさよならを言わせておしまいになるだけだった。

    しばらく経ってから、分かったことがある。そんなフリーな生き方からは何も生まれてこないのだ。

    このことを学ぶために、わたしが払った代償は本当に大きかった。

    そう、わたしには、愛が必要なのだ。

    これまで、ずいぶん無駄な時間を費やしてしまった。

    今、わたしはこの不完全な世界に完全を求めている。

    その上、愚かにも、それ(完全な愛)を見つけられると思っている。

    今、私はポケットにいっぱいつまった善意をもっているけれど、

    でも、そんな善意だけでは、今夜のわたしのさみしさを慰めてはくれない。

    今午前4時に眠れずにいて、友達のひとりもそばにはいない。

    それなのに、私は大丈夫だと、虚勢をはっている。

    そうだ、やっぱり、私には愛が必要だ。

    無駄に時間を使いすぎてしまった。

    今、わたしはこの不完全な世界に完全を求めている。

    その上、愚かにも、それ(完全な愛)を見つけられると思っている。

    一度愛を諦めた人が、再びそれを見つめ直すドラマ

    ここに意訳したように、ここには、一度愛や恋を諦めた人が、やっぱりそれじゃだめなのだ、と気づいていくドラマがあります。そこがわからないと、この歌の真の価値は見えてこないでしょう。

    隠された「小さなドラマ」:善意と孤独のリアル

    また、私の解釈では、いったん素真に愛を求める自分に変わった後で、よし善意いっぱいで生きて行こうと思ったのだが、それでも、まだ愛が見つからない今の状態では、やはり孤独で寂しい。その寂しさを、さらにもう一度噛みしめています。そして、やっぱり愛がないとダメなのだ、ということを、さらにそこで再確認しています。

    つまり、ドラマは単純にシニカルな自分が、素直に愛を求める自分に変わったというだけではありません。そのように変わった後で、それでも直ちには愛が見つからないという今のリアルな孤独を再度見つめて、やっぱり愛がないとダメだということを、もう一度感情のうねりを通して確認しています。

    ドラマの中に、さらなる小さなドラマが隠れているのです。それを読み取ることが重要です。

  • 森有正『バビロンの流れのほとりにて』を読むー(1)

    「パリにて 一九五三年十月八日」

    わたしは森有正をとくに専門的に研究してはいませんし、また彼について詳しい知識をもっているわけでもありません。彼の著作を全部読んだとか、ほとんど読んだというのでもありません。

    しかし、わたしは森有正の著作のいくつかは真面目に、真剣に読んだことがあります。そして、彼の言葉には、忘れ難いものが本当に多いのです。今、森有正全集第1巻所収の最初のエッセイ集「バビロンの流れのほとりにて」の1ページ目をめくってみると、そこにはまず日付があります。そして、一度読んだら忘れられないような真実な響きを持った文章が始まっていきます。

    「一つの生涯というものは、その過程を営む稚い日に、すでに、その本質において、残ることなく、露われているのではないたろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるを得ない。」

    「社会における地位やそれを支配する掟、それらへの不可避な配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。」

    「暗黒のクリークに降り注ぐ豪雨、冴え渡る月夜に、遥か空高く、鳴きながら渡ってゆく一群の鳥、焼きつくような太陽の光の下に、たった一羽、濁った大河の洲にたっている鷺、嵐を孕む大空の下に、暗く、荒々しく見渡すかぎり拡がっている曠野、そういうものだけが印象に今も鮮やかにのこっている。そこには若い魂たちの辿ったあとが全部露われている。しかもかれらの姿はそこには見えないのだ。このことは僕に一つの境涯を啓いてくれる。そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。叫びもなければ、呻きもないのだ。ただあらゆる形容を絶したDESOLATIONとCONSOLATIONとが、そのことが二つのものとしてではなく、ただ一つの現実として在るのだ。」

    「ただたくさんのものが、静かに漲り流れる光の波を乱して、人生の軽薄さを作っているのだ。人間というものが軽薄でさえなかったら……….。」

    「紗のテュールを嵌めた部屋の窓からは、昨日までの青空にひきかえて、灰色がかった雲が低く垂れ込める夕暮の暗い空が、その空の一隅が、石畳の道の向う側にある黒ずんだ石造のアパートの屋根の上に、見える。パリの秋はもう冬のはじまりだ。」

    「人間が軽薄である限り、何をしても、何を書いても、どんなに立派に見える仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽にすぎないのだ。その人は水の枯れた泉のようなもので、そこからは光の波も射し出さず、他の光の波と交錯して、美しい輝きを発することもないのだ。自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか知らない。その反証ばかりを僕は毎日見ているのだから。それでも進んでゆかなければならない。」

    「僕が十三歳の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。」

    「僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。」

    「僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。」

    「たくさんの問題を背負って僕は旅に立つ。この旅は、本当に、いつ果てるともしれない。ただ僕は、稚い日から、僕の中に露われていたであろう僕自身の運命に、自分自ら撞着し、そこに立つ日まで、止まらないだろう。」

    (森有正(1978)森有正全集 第1巻. 筑摩書房 より抜粋)

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    この森有正「バビロンの流れのほとりにて」の最初の記事の日付ですが、一九五三年というのは、わたしが生まれた年です。わたしは森有正がこの記事を書いたとき、生後約半年でした。そして千葉県の田舎で両親と暮らしていました。今は、二千二十五年です。

    わたしは国際基督教大学の学生だった1970年代に、森先生がキャンパスを歩いておられるのをよく見かけました。夜、教会堂でパイプオルガンの練習をされているのを、こっそり会堂に入って聞かせてもらったこともありました。一度だけ、偶然に、大学食堂で相席になり、短い会話をさせていただいたこともありました。

    今ここで、森有正の言葉について、わたしがさらに解説や説明を語る気持ちにはなれません。ただ戦争で死んでいった若者たちについて、

    「そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。叫びもなければ、呻きもないのだ。ただあらゆる形容を絶したDESOLATIONとCONSOLATIONとが、そのことが二つのものとしてではなく、ただ一つの現実として在るのだ。」

    と書かれています。これについて、確かにそれはそうなのだと、わたし自身が少しわかるようになってきたのは、わたし自身相当の苦労をした後でした。ですから、森有正が彼の「一つの境涯」に辿り着くまで、どれほどの苦労があったのだろうか、と思うのです。

  • ニルスのふしぎな旅

    ニルスのふしぎな旅

    わたしは読書は好きだが、ひたすら毎日本を読んでいるといったタイプではない。多くの時間は、読書よりもたんに脳髄の中心部で思考することに費やしている。わたしの思考は途切れ途切れだが、それでもずっと継続して連なっている。そんなわたしの思考の中に、大きく分けて2つの読書体験のジャンルがある。一つは、普通の書物全般であるから、とくにジャンルというのも変なのだが、もう一つが、じつは、児童文学なのである。だから、児童文学とそれ以外という分類になる。

    児童文学が、わたしにとって、一つのジャンルになるのは、それがかけがえのないわたし自身の経験の一部を形作っているからである。児童文学についても、わたしは多読ではなかった。それでも、わたしの子供のころの成長の一コマを刻み、深く心に残ったものが、いくつかある。

    その一つが、最初のブログで取り上げた、『安寿と厨子王』だった。その前後の時期で、やはり母に読んでもらった絵本だったが、大変印象深かったものが他にもあった。それは当時の普通の家族を描いたものであった。ある小学生の家族だったが、父親が毎朝自転車で仕事に行く。ところが、ある日父親が仕事に行こうとすると、自転車が盗まれていた。家族は、みなとても驚きまたがっかりしてしまった。ところが、父親が新聞に「自転車がなくなって困っています。返してください」という連絡文を掲載してみたのである。すると、その翌日、自転車が家の前に返してあった。そして、家族がみんなとても喜んだ、というストーリーである。わたしは、この絵本が大好きだった。それでよく記憶しているし、その絵本の挿絵まで、今でも、ほんのりと記憶しているほどである。また、背景として、小学生の家は丘の麓にあったが、友達の家は丘の上にあるという設定だった。わたしは、絵本の中に入り込み、主人公の少年と一体になっていたので、丘の上の友達の立派な家を見上げて、自分とは少し違う世界のような感じがしたりしていた。

    どうも、わたしは、倫理的な教訓というか教えというか、そういったものが表現されている本に感動したようである。幼いうちから、なぜか、人間として成長していくということに、憧れと言ったらよいのか、願いと言ったらよいのか、そういった気持ちがあった。自分で言うのもなんだが、気持ちの優しい子供だったと言うか、あるいは逆に言えば、優しさを強く求める子供だった。それで、子供の成長を見つめてくれている大きく包み込む優しさに溢れた作者の眼差しを、無意識に感じ取り、その眼差しを子供として感受しつつ、また同時に作者の眼と一体にもなって、自分自身を見つめ返していた。

    その後、しばらくそれほど強く印象に残ったものはなかった。だが、もう10代の半ばごろであろうか、児童書を読むには、少し高い年齢になっていた時期だったかもしれない。わたしは、『ニルスのふしぎな旅』を読んだ。それを読み出して、一気にだったかあるいはもう少し時間をかけたか定かではないが、夢中になって読み切ってしまった。少年が、自宅でいたずらをしているうちに小人になってしまい、ガチョウの背中にのって、ガンの群れと一緒に、大冒険をする。そして、長い旅ののち、家に戻る話である。懐かしくなったので、最近久しぶりに読み返し始めている。

    子供が、たった一人で、大人には想像もつかないような大冒険をする。そして、その経験を通して、大きく成長していく。それは、人生というものが、どんなふうにさまざまな冒険を経て、学び成長していく旅路なのかということを、説明ではなく物語として語っている。この物語は、人生というものがどういったふうに展開するものなのかを、ファンタジーの形で、子供にとっても深く理解できるように提示してくれているのである。それにのめり込むようにして読むことによって、主人公の体験を追体験することができる。そこに深い了解が生まれるとき、それはいつまでも消えることのない深い印象として、心の中に植えつけられる。

    わたしは、人生行路というもののダイナミックな様相を、具体的に教えてくれる物語が好きなのだろう。児童文学によって、そのような人生行路を追体験することができる。心に残った児童文学は他にもあって、それらはわたしの読書体験の一つのジャンルを作った。はじめにも述べたが、児童文学とそれ以外書物の二つのジャンルに分けてもよいくらいに、児童文学は私の中で重要な位置を占めている。

    人生を振り返るとき、心に残った児童文学は、不思議とひとつのまとまりとなって思い出される。その一つ一つの思い出は、それを読んだときの、子供だったわたしのさまざまな悩みや苦しみや喜びの入り混じった記憶と一体になり、子供なりのビタースイートとでも呼べるような、複雑な懐かしさを呼び覚ます。天真爛漫に夢中になって転げ回ることの少なかったわたしにとって、それは書物によって喚起されたイマジネーションによる、子供らしい喜びの追体験だったのかもしれない。それは悲しみのトーンをも少し含んだ、子供なりのビタースイートな経験だった。

    それが懐かしくてたまらないのは、あたかも映画ニュー・シネマパラダイスで、子供が映画を通して人生を追体験していたように、わたしは児童文学を通して人生の追体験をしていたからなのだろう。森有正が『バビロンの流れのほとりにて』で描写していた慰めと悲しみの一つになった経験の萌芽のようなものが、すでにそこにあったのかもしれない。

    今ふと思い出した。ニルスがガチョウの背中に乗って、空高く飛翔し、眼下に広がるスウェーデンの街や山や丘を眺めている描写を読んでいたとき、わたしも一緒になって高い空から広々とした世界を眺めつつ飛翔していた。その時の開放感が与えてくれた喜びを、いまもに心の中に深く記憶している。余談だが、ちょっと前に、渡り鳥と一緒に超軽量のライダーで空を飛んでいるフランス人の方の映像を見たとき、その景色が、わたしが子供時代に想像していたニルスの大空の旅のイメージとそっくりだったので、たいへん驚いた。空のイメージは冒険を想起させ、子供にとっては、大きく羽ばたいてく未来への憧れの象徴にもなる。書物の中で、大空を自由に飛翔する。ただそれだけで、子供たちは閉塞感を乗り越えて行く。その日、彼らは合唱曲「旅立ちの日に」を共に歌っているかもしれない。

  • 書店と読書

    書店と読書

    若い頃から、わたしは読書が好きだった。しかし多読ではなかった。むしろ、たまに読んだ本に深くのめり込んでいくタイプだった。多読をしないので、本は選らぶ必要があった。しかし、本を読む前に本を選ぶのは簡単ではない。両親が読者家というのでもなく、友人に読書好きがいたということでもなかったので、わたしは自分で選ぶことが多かった。それで、よく書店に行った。

    ひとりで書店にいくようになったのは、中学生になってからである。その頃わたしは居住していた船橋市から、千葉市に住む叔父の家に住民票を移し、千葉市の中学校まで電車通学するようになっていた。通学のために毎日自宅から津田沼駅まで10分ほど歩いた。そこから総武線で西千葉まで行き、西千葉駅の海側の方角にある緑町中学校までまた歩いて通った。通学の途中で、当時はまだとてもローカルな駅だった津田沼駅近くにあった小さな書店に、時折立ち寄った。

    わたしが最初に読んだ長編小説はパール・バックの『大地』だったが、それははその津田沼駅前の小さな書店で購入したものだった。河出書房の世界文学全集別巻5と6で2巻本であった。上下とも昭和35年初版で、上巻が昭和41年27刷、下巻が昭和41年29刷だった。今でもその2巻は、私の書棚に並んでいる。

    パール・バックの『大地』を読んだことは、わたしの人生にとって大きな変化をもたらした。わたしは大変内向的な性格で、あまり積極的に友人たちとわいわい騒いだり、またひとりで活発に活動したりする性格でもなかった。家で両親や家族と毎日とりわけ楽しくやっているということでもなかった。むしろ、ひとり静かにもの思いに耽り、テレビやラジオから流れてくる音楽に耳を傾け、感じ入ったりしていた。そのような性格であったから、自分自身の生活世界が限定されていて、一種の閉塞感ような気分をもっていた。そういう生活の中で、ふと書店で選んだ長編小説『大地』を夢中になって読んだ。それにより、身近な世界をはるかに越えた遠い国で、少年の想像を越える長い年月にわたって繰り広げられた中国人の家族の歴史があることを知った。それは自己が広大な時空へと出て行くような開放感を与えてくれた。思春期になったばかりで閉塞感も強かったわたしの心の世界は、少しく開放され始めた。そしてそれによって、精神的な深呼吸ができたように感じがした。

    同じ書店で、わたしはドストエフスキーの『罪と罰』も購入した。同じ河出書房の世界文学全集の中の一巻だった。その後、ドストエフスキーの『白痴』も読んだ。この『白痴』から受けたインパクトは非常に大きかった。それはわたしの魂というか存在というか、わたし自身の全てが根底から揺さぶられるような激しい経験だった。小説を読んであまり強すぎる感動を持つことは、不健康な面もあるという話を後で聞いたことがあるが、しかしともかく激しい経験だった。それで『白痴』を再読することは、自分にとってはよくないと直観的にわかった。おそらく安心して読み返すことができるのは、かなり年齢を重ねてからであろうと思った。じっさいわたしはその時以来、いまだに『白痴』を再読していない。ただこの2、3年は、そろそろ再読しても大丈夫だろう、という感じがしてきている。

    書店の話に戻ると、その小さな津田沼駅前の書店がなければ、わたしはどこか他の書店を探してまでして書籍を買いに行ったりはしなかったであろう。通学する途中に、文学全集だろうが世界の思想だろうが、ともかく世界の知性の最高峰の書籍が並んでいる書店があり、それをひとりの中学生が手に取って、これがいいなと自分で選んだ本を購入し、それを読んでその後の人生が変わるほどの経験ができたということは、驚くべきことではないだろうか。しかもそこは街の本当に小さな書店だった。

    わたしは高校は千葉高等学校まで電車通学をしたので、高校に入ってからも同じ書店にはときどき行った。津田沼駅前が大きく開発されるようになったのは、だいぶ後からだ。だから、しばらくはその書店はそこにあったはずである。開発が進み駅前は大きく様変わりした。そして書店の規模も大きくなり数も増えていった。しかし三鷹の大学に入ったころからよく通うようになったのは、むしろ新宿の紀伊國屋書店本店や神田の古書店街だった。

    わたしはどちらかというと、かなり融通の効かないたいへん真面目な学生だった。それで新宿に行って遊んだりすることはなかった。経済的にも、そこまでの余裕はなかった。新宿に行ったときは、紀伊國屋書店に直行した。天気がよければ地上に出て外を歩き、雨の日は地下道を使った。地上を歩いたときは、歩道から直接上っていくエスカレーターに乗って店内に入った。そして、いつも文学や哲学など人文系の棚を熱心に見ていた。真新しい新刊書が所狭しと並んでいる書棚を見るのは、胸が躍った。理数系の棚をみることもときどきあった。わたしは国際基督教大学の教養学部でHumanitiesの専攻だったが、高等学校では理系のクラスだった。それでできないながらも数学の本などにも関心があった。人文科学でも自然科学でも、一般書から専門書までぎっしり並んでいるのを見ているだけでわくわくした。時々はじっさいに購入もしたが、自分には難ししぎる書物を買ってしまうこともあったりした。購入した本の多くは、今でも持っていて、家の書棚のどこかにあるはずである。

    本を見終わると、地下街でカレーを食べるのがいつもの習慣だった。同じ大学で知り合った妻とは、結婚前後によく紀伊國屋書店本店前で待ち合わせをした。携帯電話などない時代である。約束通りにその場所に行かなければ、相手は困ってしまう。そんな時代に待ち合わせるのには、そこはぴったりの場所だった。待ち合わせると、妻も書店が好きだったので、二人でしばらく店内の書籍を見た。そして地下街のカレーかあるいは地上に出て中村屋のカレーを食べた。

    神田古書店街はよくひとりで行った。人文系の古書店をよく見て歩いた。わたしは西洋古典学を中心に学んでいたので、オックスフォードクラシカルテキストが置いてある北沢書店などをよく覗いた。しかし出来の悪い学生だったので、まだ読みこなすこともできない原典テキストの棚を長時間見ているのは気恥ずかしかった。だから長くは店内に滞在しなかった。神田で購入したオックスフォードクラシカルテキストは、今でもおそらく全部持っている。それらは今も書棚の手の届くところにに並べてある。北米に留学して実験心理学を専攻するようになってからも、わたしの哲学への関心は強く残った。だからそれらの人文系の書物を処分することは一度も考えたことはなかった。ソフォクレスのアンティゴネーのJebbの註解書の古書を購入したのは、田村書店の2階だったと記憶する。アドバイザーの川島重成教授が同じJebbのオイディプス王の註解書を使っておられるのを知っていたので、アンティゴネーの註解書を見たとき、どうしても欲しくなってしまった。それで衝動買いをしてしまったのだ。その註解書も書棚のどこかに隠れているはずである。わたしの卒業論文は、ソフォクレスの『コロヌスのオイディプス』についてだったので、それくらいの衝動買いは已むをえなかったと今でも思っている。

    北米留学中に街の書店に行った記憶は多くはないが、コーネル大学のあったイサカの街の小さな書店にときどき行ったと記憶がある。その書店の書棚を見ながら、何か良い本はないかと見回して、ペーパーバックの小説などを買ったりした。大学のキャンパスブックストアにもよく行った。わたしは科学的心理学を専攻していながら、ハイデガーの『存在と時間』の英訳を購入したのもキャンパスブックストアだった。

    日本で働くようになってからは、紀伊國屋書店本店だけでなく、自宅から行きやすい丸善本店や、その後発開発が進み、数件の書店が競合するようになった津田沼駅前の書店にもよく通った。他にあまり趣味がなかったので、書店に行くのが一番の楽しみだった。年齢を重ねてからは、若い時ほどは書店に行くことがなくなった。十和田市に移ってからは、東京の書店まではなかなか行けない。そんな中、つい先日用事で八戸に行ったとき入った八戸ブックセンターは驚きだった。児童書から地域に関連したさまざまな書籍そして人文系や理系の専門書まで、背の高い書棚にとても魅力的に並べられている。だいぶ前に東京の丸善本店で似た感じで展示されたコーナーを見たことがあったが、八戸でこのような知的好奇心を呼び覚ます書店があるとは想像しなかった。

    読書の喜びを引き出してくれる最初の一歩は、じっさいに本を自分の手に取ってみて、「よく分からないけれど、もしかしたら面白そうだな」と直観的に自分で感じることなのではないだろうか。わたしの実体験としては、どうもそんな気がする。

  • 『安寿と厨子王』覚書

    『安寿と厨子王』覚書

    前回の「初めて読んだ本」の続編として、『安寿と厨子王』に関する覚書を書いておくことにしました。

    『安寿と厨子王』を母に読んでもらった記憶は、わたしにとって特別なものでした。その物語の世界は、幼いわたしの日々の生活に、生活することと言いますか、生きることと言いますか、それがどういうことなのかを、深い彩りと静かに染み通っていく哀愁を帯びた旋律を添えて、教えてくれました。まるで濃厚なストーリーの映画を見た後で少し世界が違って見える時ように、その物語を読み聞かせてもらうたびに、わたしの生活世界はその奥行きを少しづつ増していきました。

    その記憶はわたしの中でずっと持続していましたが、どういうわけか、その後の人生で、『安寿と厨子王』についてのわたし自身の経験を、誰かに話したりすることは、ほとんどありませんでした。ですからずっとわたしは、わたしと似たような経験、あるいはまた別の形の経験であったとしても、『安寿と厨子王』の物語に感動したり感銘を受けたりした経験のある、友人や学校の先生たちはいなかったのだろうと、思っていました。つまり、誰かとたまたま『安寿と厨子王』の話になって、その話題を共有したり、感動を共有したりということが、なかったのです。

    ところで、わたしは妻と結婚して48年になります。その妻に、最近読書のブログを始めたので、その第一回の題材として『安寿と厨子王』について書いたと語りました。すると、妻が自身の中学校時代の学芸会でクラスの出し物として演じた『安寿と厨子王』が、じつに素晴らしかったと、詳しくその思い出を語り始めたのです。それは妻が、名川中学校の2年生か3年生の時でした。安寿の役をしたのはNさんで今も存命中、厨子王をしたのはUさんでやはり存命中、妻自身は放送係だったので裏方でした。(妻はこの夏開催される同窓会でNさんとUさんに会うそうです。)

    妻はその時の『安寿と厨子王』はたいへん感動的だと言いました。それで、わたしは子供のころからずっと大人になるまで、ほとんどだれとも共有できなかった『安寿と厨子王』の感動を、今頃になって妻と共有することになったのです。人生はわからないものです。わたし自身、おとなになったころには、もう誰とも同じ感動を分かち合うこともないだろうと半分諦めていたので、幼い日に母から『安寿と厨子王』を読んでもらった思い出を、誰に対しても話さなくなっていたのだと思います。それで、結婚してからも妻に対しても、それについてあまり話さなかったのでしょう。

    ところが、今度ブログを執筆しようと、改めてわたし自身の記憶を辿り直したことで、『安寿と厨子王』の記憶を妻に語ることになりました。それを聞いた妻が、改めて自分の中学校時代の『安寿と厨子王』の演劇の記憶を詳しく語ってくれたのです。

    人生はふとしたことで、思わぬ展開をすることがあります。しかもそういったことは結構よくあることです。ただ、しかし、それはいつも予期せぬ形で起こります。そういう事態を意図的に演出することはできません。それは偶然性の領域に属しています。それにもかかわらず、それが人生あるいは人の視野を広げたり変えたりすることがあります。

    この他にも少し調べただけでも、『安寿と厨子王』また『山椒大夫』に関する情報には、じつに興味深いものがいくつもありました。森鴎外が『山椒大夫』を執筆した背景、それが映画化されてかなりヒットしたこと、津軽の岩木山の山岳信仰と安寿伝説の繋がり、それに触れた太宰治の小説『津軽』などなど。それらについては、また別の機会にこのブログに書くことができればと思っています。

    ただ映画『山椒大夫』について、それがリリースされたのが1954年3月31日であったということについてだけは、一言触れておきます。それはちょうどわたしが満一歳になったばかりの時期です。母がそれを観たかどうか確かなことは知らないのですが、少なくとも自分の長男がちょうど満一歳のころセンセーショナルにリリースされたその映画について、間違いなく知っていたことでしょう。またその時代には、『山椒大夫』はたいへんな話題だったはずです。今なら、検索のトップに躍り出ていたのではないでしょうか。

    つまり、母は結構普通の人だったのではないかと思うのです。当時の流行や話題に対して、周囲のみんなと同じように反応し影響されていたのではないでしょうか。母が、どこにでもいるようなそんな普通の母親であり主婦であったとのだとすると、わたしが『安寿と厨子王』の読み聞かせの記憶を美化することで、母に対して少しセンチメンタルな共感を持とうとしたのは、むしろわたし自身の幼い日への懐かしさのゆえに、フィクショナルに構成された思い出だったかもしれません。

    思い出と懐かしさとすでに亡き母への想いが、自分でも気づかないほど深いところで交錯し、現実と記憶と願望がいつしか映画の中のように手に手を取り合って踊っていたのかもしれないのです。もちろん、わたしが母の思いを読み当てていたのか、それともわたしの単なる感傷的な想像だったのかについては、もし母自身に尋ねることができたとしても、本当のところは答えられないかもしれません。もうそれは過ぎ去った昔のことですから。

     

     

     

     

     

     

  • 初めて読んだ本

    初めて読んだ本

    幼い時に、母に読んでもらった本を何冊か覚えている。どれも絵本だった。その中で、もっとも強く記憶に残っていた本があった。それが一番最初に読んでもらった本なのかはわからない。だが、記憶に残っているとても幼いころの思い出の中に、その本を読んでもらったときの情景が残っている。

    情景というのは、私のすぐ傍に母がいて、母にその本を読んでもらっている情景である。それが、まるで映画の一コマのように、長く私の記憶に残っていた。それは、もう私自身高齢になった今でも、ほんのりと脳裏に残っている。

    それは『安寿と厨子王』というタイトルの絵本だった。母は、わたしにその本を何度も読んでくれた。母親と安寿と厨子王という二人の兄弟が、騙されて離ればなれになる。母親は佐渡に売られ、二人の子供は山椒大夫に捉えられ過酷な仕事を強いられる。弟の厨子王だけがかろうじて逃れ、その後紆余曲折を経て成長して大人になり、佐渡にわたって母の面影を探す。そこで、ふと立ち止まった農家の庭先で、雀を長竿で追い払っている老女が、つぶやくよう歌っているのが聞こえてくる。なんと老女は

     安寿恋しや、ほうやれほ

     厨子王恋しや、ほうやれほ

    と、歌っていた。

    この絵本が手元にないので、物語のあらすじは、森鴎外の『山椒大夫』を参考にしながら、わたしの幼い日の遠い記憶をたぐりながら書いた。

    私の母は、この再会の場面の母親の歌を、なんどもなんど気持ちを込めて読んでくれた。それでわたしも読んでもらうたびに、幼いながらにその運命の過酷さと再会の喜びの場面で、悲しみを乗り越えてついに再会を果たした喜びがどれほど大きなものだったか、深く感じ入ったのを覚えている。

    実は、わたしの母は幼いときに、子供のいなかった実母の姉妹の家の養子になっていた。養子に出たことは、母にとっては辛かったことと思う。もちろん、安寿と厨子王とその母親の苦しみとは比べ物にならないが、それでも母にはやはり、それなりに実母を離れて暮らすことの寂しさがあったことだろう。

    その自分自身の経験から、母はもしかしたら、母なりに『安寿と厨子王』の物語に深く共鳴していたのではないだろうか。それは、とくに再会の場面で、母親が歌っていた言葉を、母がわたしに読んで聞かせるとき、思わずその声の深さとなって、現れ出ていたのではないだろうか。

    そんなふうに母が読んでくれた時の声の記憶について回想できるようになったのは、私自身、もう40代後半かあるいは50代に入っていた頃だったような気がする。自分自身が歳をとるまで、母の若き日々の内心の想いがどんなだったかに思いを馳せ、母の心の襞あるいはその繊細なつらさや喜びについて、深く理解する力も、また理解しようとする想いすらも持てなかったのではないだろうか。

    書物は、一冊の絵本であっても、それを読んだ人がどのような想いをもって、それを読んでいたのかすら、簡単にはわからない。ある感動をもって何度も読んでいたとしても、ひとりひとりがそれなりに持つ感動や感想を、お互いに理解し合うまでには、かなりの人生経験が必要なのではないだろうか。