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  • ニルスのふしぎな旅

    ニルスのふしぎな旅

    わたしは読書は好きだが、ひたすら毎日本を読んでいるといったタイプではない。多くの時間は、読書よりもたんに脳髄の中心部で思考することに費やしている。わたしの思考は途切れ途切れだが、それでもずっと継続して連なっている。そんなわたしの思考の中に、大きく分けて2つの読書体験のジャンルがある。一つは、普通の書物全般であるから、とくにジャンルというのも変なのだが、もう一つが、じつは、児童文学なのである。だから、児童文学とそれ以外という分類になる。

    児童文学が、わたしにとって、一つのジャンルになるのは、それがかけがえのないわたし自身の経験の一部を形作っているからである。児童文学についても、わたしは多読ではなかった。それでも、わたしの子供のころの成長の一コマを刻み、深く心に残ったものが、いくつかある。

    その一つが、最初のブログで取り上げた、『安寿と厨子王』だった。その前後の時期で、やはり母に読んでもらった絵本だったが、大変印象深かったものが他にもあった。それは当時の普通の家族を描いたものであった。ある小学生の家族だったが、父親が毎朝自転車で仕事に行く。ところが、ある日父親が仕事に行こうとすると、自転車が盗まれていた。家族は、みなとても驚きまたがっかりしてしまった。ところが、父親が新聞に「自転車がなくなって困っています。返してください」という連絡文を掲載してみたのである。すると、その翌日、自転車が家の前に返してあった。そして、家族がみんなとても喜んだ、というストーリーである。わたしは、この絵本が大好きだった。それでよく記憶しているし、その絵本の挿絵まで、今でも、ほんのりと記憶しているほどである。また、背景として、小学生の家は丘の麓にあったが、友達の家は丘の上にあるという設定だった。わたしは、絵本の中に入り込み、主人公の少年と一体になっていたので、丘の上の友達の立派な家を見上げて、自分とは少し違う世界のような感じがしたりしていた。

    どうも、わたしは、倫理的な教訓というか教えというか、そういったものが表現されている本に感動したようである。幼いうちから、なぜか、人間として成長していくということに、憧れとったらよいのか、願いといったらよいのか、そういった気持ちがあった。自分で言うのもなんだが、気持ちの優しい子供だったと言うか、あるいは逆に言えば、優しさを強く求める子供だった。それで、子供の成長を見つめてくれている大きく包み込む優しさに溢れた作者の眼差しを、無意識に感じ取り、その眼差しを子供として感受しつつ、また同時に作者の眼と一体にもなって、自分自身を見つめ返していた。

    その後、しばらくそれほど強く印象に残ったものはなかった。だが、もう10代の半ばごろであろうか、児童書を読むには、少し高い年齢になっていた時期だったかもしれない。わたしは、『ニルスのふしぎな旅』を読んだ。それを読み出して、一気にだったかあるいはもう少し時間をかけたか定かではないが、夢中になって読み切ってしまった。少年が、自宅でいたずらをしているうちに小人になってしまい、ガチョウの背中にのって、ガンの群れと一緒に、大冒険をする。そして、長い旅ののち、家に戻る話である。懐かしくなったので、最近久しぶりに読み直し始めている。

    子供が、たった一人で、大人には想像もつかないような大冒険をする。そして、その経験を通して、大きく成長していく。それは、人生というものが、どんなふうにさまざまな冒険を経て、学び成長していく旅路なのかということを、説明ではなく物語として語っている。この物語は、人生というものがどういったふうに展開するものなのかを、ファンタジーの形で、子供にとっても、深く理解できるように提示してくれているのである。それにのめり込むようにして読むことによって、主人公の体験を追体験することができる。そこに深い了解が生まれるとき、それはいつまでも消えることのない深い印象として、心の中に植え付けられる。

    わたしは、人生行路というもののダイナミックな様相を、具体的に教えてくれる物語が好きなのだろう。児童文学によって、そのような人生行路を追体験することができる。心に残った児童文学は他にもあって、それらはわたしの読書体験の一つのジャンルを作った。はじめにも述べたが、児童文学とそれ以外書物の二つのジャンルに分けてもよいくらいに、児童文学は私の中で重要な位置を占めている。

    人生を振り返るとき、心に残った児童文学は、不思議とひとつのまとまりとなって思い出される。その一つ一つの思い出は、それを読んだときの、子供だったわたしのさまざまな悩みや苦しみや喜びの入り混じった記憶と一体となり、子供なりのビタースイートとでも呼べるような、複雑な懐かしさを呼び起こす。天真爛漫に夢中になって転げ回ることの少なかったわたしにとって、それは書物によって喚起されたイマジネーションによる、子供らしい喜びの追体験だったのかもしれない。それは悲しみのトーンをも多少含んだ、子供なりのビタースイートな経験だった。

    それが懐かしくてたまらないのは、あたかも映画ニュー・シネマ・パラダイスで、子供が映画を通して人生を追体験していたように、わたしは映画でなく児童文学を通して人生の追体験をしていたからなのだろう。森有正が『バビロンの流れのほとりにて』で描写していた慰めと悲しみの一つになった経験の萌芽のようなものが、すでにそこにあったのだろうか。

    今ふと思い出した。ニルスがガチョウの背中に乗って、空高く飛翔し、眼下に広がるスウェーデンの街や山や丘を眺めている描写を読んでいたとき、わたしも一緒になって高い空から広々とした世界を眺めつつ飛翔していた。その時の開放感が与えてくれた喜びを、いまだに心の中に深く記憶している。余談だが、ちょっと前に、渡り鳥と一緒に超軽量のライダーで空を飛んでいるフランス人の方の映像を見たとき、その景色が、わたしが子供時に想像していたニルスの大空の旅のイメージとそっくりだったので、たいへん驚いた。空のイメージは冒険を想起させ、子供にとっては、大きく羽ばたいてく未来への憧れの象徴にもなる。書物の中で、大空を自由に飛翔する。ただそれだけで、子供たちは、閉塞感を超えて行く。その日、彼らは合唱曲「旅立ちの日に」を共に歌っているかもしれない。