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  • 『安寿と厨子王』覚書

    『安寿と厨子王』覚書

    前回の「初めて読んだ本」の続編として、『安寿と厨子王』に関する覚書を書いておくことにしました。

    『安寿と厨子王』を母に読んでもらった記憶は、わたしにとって特別なものでした。その物語の世界は、幼いわたしの日々の生活に、生活することと言いますか、生きることと言いますか、それがどういうことなのかを、深い彩りと静かに染み通っていく哀愁を帯びた旋律を添えて、教えてくれました。まるで濃厚なストーリーの映画を見た後で少し世界が違って見える時ように、その物語を読み聞かせてもらうたびに、わたしの生活世界はその奥行きを少しづつ増していきました。

    その記憶はわたしの中でずっと持続していましたが、どういうわけか、その後の人生で、『安寿と厨子王』についてのわたし自身の経験を、誰かに話したりすることは、ほとんどありませんでした。ですからずっとわたしは、わたしと似たような経験、あるいはまた別の形の経験であったとしても、『安寿と厨子王』の物語に感動したり感銘を受けたりした経験のある、友人や学校の先生たちはいなかったのだろうと、思っていました。つまり、誰かとたまたま『安寿と厨子王』の話になって、その話題を共有したり、感動を共有したりということが、なかったのです。

    ところで、わたしは妻と結婚して48年になります。その妻に、最近読書のブログを始めたので、その第一回の題材として『安寿と厨子王』について書いたと語りました。すると、妻が自身の中学校時代の学芸会でクラスの出し物として演じた『安寿と厨子王』が、じつに素晴らしかったと、詳しくその思い出を語り始めたのです。それは妻が、名川中学校の2年生か3年生の時でした。安寿の役をしたのはNさんで今も存命中、厨子王をしたのはUさんでやはり存命中、妻自身は放送係だったので裏方でした。(妻はこの夏開催される同窓会でNさんとUさんに会うそうです。)

    妻はその時の『安寿と厨子王』はたいへん感動的だと言いました。それで、わたしは子供のころからずっと大人になるまで、ほとんどだれとも共有できなかった『安寿と厨子王』の感動を、今頃になって妻と共有することになったのです。人生はわからないものです。わたし自身、おとなになったころには、もう誰とも同じ感動を分かち合うこともないだろうと半分諦めていたので、幼い日に母から『安寿と厨子王』を読んでもらった思い出を、誰に対しても話さなくなっていたのだと思います。それで、結婚してからも妻に対しても、それについてあまり話さなかったのでしょう。

    ところが、今度ブログを執筆しようと、改めてわたし自身の記憶を辿り直したことで、『安寿と厨子王』の記憶を妻に語ることになりました。それを聞いた妻が、改めて自分の中学校時代の『安寿と厨子王』の演劇の記憶を詳しく語ってくれたのです。

    人生はふとしたことで、思わぬ展開をすることがあります。しかもそういったことは結構よくあることです。ただ、しかし、それはいつも予期せぬ形で起こります。そういう事態を意図的に演出することはできません。それは偶然性の領域に属しています。それにもかかわらず、それが人生あるいは人の視野を広げたり変えたりすることがあります。

    この他にも少し調べただけでも、『安寿と厨子王』また『山椒大夫』に関する情報には、じつに興味深いものがいくつもありました。森鴎外が『山椒大夫』を執筆した背景、それが映画化されてかなりヒットしたこと、津軽の岩木山の山岳信仰と安寿伝説の繋がり、それに触れた太宰治の小説『津軽』などなど。それらについては、また別の機会にこのブログに書くことができればと思っています。

    ただ映画『山椒大夫』について、それがリリースされたのが1954年3月31日であったということについてだけは、一言触れておきます。それはちょうどわたしが満一歳になったばかりの時期です。母がそれを観たかどうか確かなことは知らないのですが、少なくとも自分の長男がちょうど満一歳のころセンセーショナルにリリースされたその映画について、間違いなく知っていたことでしょう。またその時代には、『山椒大夫』はたいへんな話題だったはずです。今なら、検索のトップに躍り出ていたのではないでしょうか。

    つまり、母は結構普通の人だったのではないかと思うのです。当時の流行や話題に対して、周囲のみんなと同じように反応し影響されていたのではないでしょうか。母が、どこにでもいるようなそんな普通の母親であり主婦であったとのだとすると、わたしが『安寿と厨子王』の読み聞かせの記憶を美化することで、母に対して少しセンチメンタルな共感を持とうとしたのは、むしろわたし自身の幼い日への懐かしさのゆえに、フィクショナルに構成された思い出だったかもしれません。

    思い出と懐かしさとすでに亡き母への想いが、自分でも気づかないほど深いところで交錯し、現実と記憶と願望がいつしか映画の中のように手に手を取り合って踊っていたのかもしれないのです。もちろん、わたしが母の思いを読み当てていたのか、それともわたしの単なる感傷的な想像だったのかについては、もし母自身に尋ねることができたとしても、本当のところは答えられないかもしれません。もうそれは過ぎ去った昔のことですから。

     

     

     

     

     

     

  • 初めて読んだ本

    初めて読んだ本

    幼い時に、母に読んでもらった本を何冊か覚えている。どれも絵本だった。その中で、もっとも強く記憶に残っていた本があった。それが一番最初に読んでもらった本なのかはわからない。だが、記憶に残っているとても幼いころの思い出の中に、その本を読んでもらったときの情景が残っている。

    情景というのは、私のすぐ傍に母がいて、母にその本を読んでもらっている情景である。それが、まるで映画の一コマのように、長く私の記憶に残っていた。それは、もう私自身高齢になった今でも、ほんのりと脳裏に残っている。

    それは『安寿と厨子王』というタイトルの絵本だった。母は、わたしにその本を何度も読んでくれた。母親と安寿と厨子王という二人の兄弟が、騙されて離ればなれになる。母親は佐渡に売られ、二人の子供は山椒大夫に捉えられ過酷な仕事を強いられる。弟の厨子王だけがかろうじて逃れ、その後紆余曲折を経て成長して大人になり、佐渡にわたって母の面影を探す。そこで、ふと立ち止まった農家の庭先で、雀を長竿で追い払っている老女が、つぶやくよう歌っているのが聞こえてくる。なんと老女は

     安寿恋しや、ほうやれほ

     厨子王恋しや、ほうやれほ

    と、歌っていた。

    この絵本が手元にないので、物語のあらすじは、森鴎外の『山椒大夫』を参考にしながら、わたしの幼い日の遠い記憶をたぐりながら書いた。

    私の母は、この再会の場面の母親の歌を、なんどもなんど気持ちを込めて読んでくれた。それでわたしも読んでもらうたびに、幼いながらにその運命の過酷さと再会の喜びの場面で、悲しみを乗り越えてついに再会を果たした喜びがどれほど大きなものだったか、深く感じ入ったのを覚えている。

    実は、わたしの母は幼いときに、子供のいなかった実母の姉妹の家の養子になっていた。養子に出たことは、母にとっては辛かったことと思う。もちろん、安寿と厨子王とその母親の苦しみとは比べ物にならないが、それでも母にはやはり、それなりに実母を離れて暮らすことの寂しさがあったことだろう。

    その自分自身の経験から、母はもしかしたら、母なりに『安寿と厨子王』の物語に深く共鳴していたのではないだろうか。それは、とくに再会の場面で、母親が歌っていた言葉を、母がわたしに読んで聞かせるとき、思わずその声の深さとなって、現れ出ていたのではないだろうか。

    そんなふうに母が読んでくれた時の声の記憶について回想できるようになったのは、私自身、もう40代後半かあるいは50代に入っていた頃だったような気がする。自分自身が歳をとるまで、母の若き日々の内心の想いがどんなだったかに思いを馳せ、母の心の襞あるいはその繊細なつらさや喜びについて、深く理解する力も、また理解しようとする想いすらも持てなかったのではないだろうか。

    書物は、一冊の絵本であっても、それを読んだ人がどのような想いをもって、それを読んでいたのかすら、簡単にはわからない。ある感動をもって何度も読んでいたとしても、ひとりひとりがそれなりに持つ感動や感想を、お互いに理解し合うまでには、かなりの人生経験が必要なのではないだろうか。